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企業情報

ニッパツ創立80周年

ごあいさつ

2019年、当社は創立80周年を迎えました。この記念すべき年を迎えられるのも、株主・投資家をはじめ、お客様、取引先、地域社会など、当社を取り巻く多くのステークホルダーの皆様の温かいご支援の賜物であり、深く感謝申し上げます。

さらにその先の、100年企業を目指すために、「真直ぐ」「真摯」に「ものづくり」に取り組んでいきます。そして持続可能な社会の発展に貢献できるよう果敢に取り組むとともに企業価値の向上を図ってまいります。


創立80周年記念誌 「跳上飛躍-ニッパツ80年の軌跡」



創立80周年 ターニングポイントとなった出来事

第46回東京モーターショー2019で、当社ブースに展示した内容を再編集したものです。
その時どきの出来事に沿ってご紹介しています。クリックしてください。

1. ニッパツ創立
芝浦スプリング製作所を買収

当社の創立は、東京・芝浦にあった「芝浦スプリング製作所」を買収したことに始まります。同社は中野政雄氏が個人企業としてはじめ、自動車の補修用のばねからスタートし、組付用のばねに業容を拡大していました。その後、会社組織化しました。

当社の初代社長となる楓英吉、井上清、坂本壽の三氏が、自動車用のばねに着目し、起業意欲を発揮して事業計画を練り、最も近道ともいえる既存のばね工場の買収にとりかかりました。

昭和14年(1939年)2月、大阪製鋼所の日東工場を買収し、ばねの圧延工場とした後、臨時株主総会での役員を改選、後に社長となる藤岡清俊氏らが新たに役員となりました。二度の増資などを経て、同年9月8日、社名を「日本発条株式会社」としました。当社はこの日を創立記念日としています。

当社の前身である芝浦スプリング製作所

焼入れ工程

コイルばね加工

2. 芝浦から磯子へ移転
最新鋭の工場を設立

東京・芝浦で創業しましたが、創立者たちの胸には、設備を拡充して大きな量産工場をつくる構想がありました。当時、材料や製品の輸送は船が主体であったため、新工場も海岸地帯がよいと考え、千葉県の市川から東京湾沿いに用地を探しました。なかなか適した土地がありませんでしたが、横浜市磯子の埋め立て地を見つけました。

工場建設には、資本金の2倍に当たる300万円の巨額な費用を投じ、クレーンやコンベア、自動化機械など、可能な限りの最新鋭設備を導入しました。昭和15年(1940年)11月、磯子工場(注)は、最先端を行く近代化工場として、板ばねの生産を開始しました。磯子工場の操業開始とともに、当社の本拠は磯子に移りました。

その後、第2次世界大戦などの苦難の時代を乗り越えながら、ショットピーニングの導入などの開発や生産革新を重ね、高い技術力を背景に躍進していくことになります。
(注)磯子工場は当時、「横浜工場」と称していましたが、後年の横浜工場(金沢区)との混濁しないため、ここでは「磯子工場」と記述しています。

最新鋭の工場を設立

コンベアが導入された板ばね生産ライン

1959年に導入されたショットピーニング

3. 大同発条との合併
ばねのトップメーカーに

「神武景気」と称された昭和30年(1955年)からの大型景気とともに、日本経済は本格的な拡大期に入りました。自動車メーカーの積極的な設備投資に呼応し、当社も二次にわたり設備投資・合理化を推進しました。

一方でばね業界は、シェア争いが一段と激しさを増してきました。「このまま過当競争を続けていては共倒れの危険性さえある」と判断した当社の経営陣は、業界再編成の急先鋒となり、32年(1957年)春、業界の三指に入る大同製鋼のばね部門との合併という思い切った結論を導き出しました。

合併の動きは急速に具体化し、公正取引委員会などとの度重なる折衝などを乗り越えて、同年12月、大同製鋼は当社との合併を前提にしてばね部門を分離し、大同発条を設立しました。こうして翌年5月、当社と大同発条の合併が実現しました。

これにともない、大同発条の川崎工場は、当社の川崎工場となりました。この時、資本金も5億円に増資され、ばねのトップメーカーとしての地位を確立しました。

大同発条との合併

大同発条との合併時の首脳陣

合併直後のばね川崎工場の生産状況

4. シート事業に参入
シート用ばねからウレタン一体発泡シート生産へ

当社は昭和24年(1949年)から、進駐軍向けジープのシートスプリングを、長野県の宮田工場(現伊那工場)で生産していました。

その後、一般トラックなどへの事業を拡大していきましたが、生産量が増えるにつれ、輸送コストがかさみ収益に影響が出るようになりました。この状況を打開するためには、自動車メーカーに隣接した地域にシートスプリングの専門工場を新設するしかありませんでした。

そして36年(1961年)、現地生産の最初の拠点として、名古屋工場(現豊田工場)を新設しました。

また翌年にはシート川崎工場を新設しました。当時は鼓型ばねでしたが、米国ロックウェル社との技術提携により、生産性向上と軽量化が図られるSばねに切り替え、これを他社に先駆けて生産するようになりました。 その後、39年(1964年)からウレタン一体発泡シートの生産を開始し、以後、太田工場(現群馬工場)を新設するなど、シート事業は堅調に拡大していきました。

自動車シート事業に本格参入し、名古屋工場で量産

シート生産の拠点として新設された名古屋工場

本格参入して生産されたウレタン一体発泡シート

5. いち早く海外に進出
初の海外拠点としてタイニッパツを設立

昭和38年(1963年)、当社は自動車部品メーカーとしては初めて、タイに進出しました(注)
昭和30年代には、早くも東南アジアや南米からの板ばねの引き合いが来て、海外生産の足固めが始まっていました。この頃の東南アジアでのばねの需要は補修用が中心でしたが、昭和34年(1959年)には、国内需要が300トンであったのに対して、当社は100~150トンを輸出していました。こうした中で、当時の関係役員は折衝を重ね、苦労の末にタイニッパツ設立の認可を取り付けました。

当初、板ばねの月産能力400トンの設備計画を立てました。設立時の従業員は、現地人94名、日本からの駐在員7名の101名でした。

タイニッパツはその後、各地に拠点を設け、シート一貫生産を開始したのを始め、コイルばねや各種精密ばねのほか、自動車分野以外にも業容を拡大して、HDD用サスペンションなど当社の主たる事業を手掛けており、当社グループの最重要拠点の一つとして躍進しています。
(注)当社より矢崎総業が先にタイに進出しているが、自動車部品事業としては当社が初めてとなっている。

初の海外進出。タイニッパツを設立

1963年8月30日、仏式で行われたタイニッパツ起工式

1963年11月12日、タイニッパツ初の入社式

6. 事業の多角化へ
企業の発展を目指し、製造業以外へも進出

意外に知られていない事実として、当社が、ボウリング場やタクシー会社の経営をしていたことが挙げられます。創業に携わった坂本壽3代目社長や藤岡清俊4代目社長は、「ばねの製造業だけでは将来が厳しい」と考え、事業の多角化を推進しました。その代表的なグループ会社が「金港ボウル」と「金港交通」でした。

「金港ボウル」は当時のボウリングブームに合わせて、横浜市磯子区で営業していましたが、後に閉鎖して根岸分室となり、産機事業本部(当時)が事務所を構えました。現在は売却されており、当社の面影は残っていません。また、タクシー会社の「金港交通」は、当社のグループ会社から離れて分離独立し、現在も営業を続けています。

当社の創業者たちの思いは、そのほかにも根づいて受け継がれており、例えば、ゴルフシャフトや金属バットを開発・生産する「日本シャフト」や、船舶製品を扱う「ニッパツ・メック」など、現在の当社グループの業容の広さは、この頃にさかのぼっているのかもしれません。

当社が経営していた「金港ボウル」

当社が経営していた「金港交通」のタクシー

「日本シャフト」が生産する金属バットとゴルフシャフト

「ニッパツ・メック」が生産する船舶用コントロールユニット

7. 精密ばね事業の強化
より精密かつ高度な製品・生産技術で勝負

当社の小物ばねは、長野県の宮田工場(現伊那工場)を中心に発展してきました。線ばねおよび薄板ばねは、両方とも昭和30年代(1960年代)から需要が拡大してきました。当社は立ち遅れていた精密ばね分野へ本格的に進出するため、伊那(昭和38年(1963年)に改称)と川崎の2工場体制を構築しました。

しかし小物ばねは、懸架ばねやシートと異なり、大型設備を必要としないことから、少額資金で事業を興せるため、小規模企業が乱立していました。そのため価格競争では太刀打ちできないため、より精密な製品、より先進的な生産技術で勝負する以外ありませんでした。伊那および川崎の両工場に、最新鋭の高精度な工作機械や成形機を大量に設置しました。
その後、第1次、第2次の合理化を進める中で、自動機を導入するなど、生産技術を確立していきました。昭和45年(1970年)、川崎工場の精密ばね事業は、神奈川県の厚木工場に移管しました。こうして精密ばね事業は拡大を続け、厚木が薄板ばね、伊那が線ばねを主力製品としてきました。

なお、精密ばねの一事業であったHDD用サスペンションは、平成12年(2000年)、DDS事業本部として独立しました。

最新鋭のコイリングマシンを導入

合理化の一環として導入された薄板ばねの自動精密打抜機

昭和45年(1970年)川崎から精密ばね事業を移管した厚木工場

8. 非自動車分野の開拓
様々な分野に、多彩な新製品を開発

昭和46年(1971年)、当社初の中期経営計画「ビジョン5」が発表され、高い数字目標が掲げられました。次の昭和51年(1976年)に発表された「新ビジョン5」はさらに高い数字目標が掲げられ、この目標達成のため、それまで売上高比率の高かった自動車分野に依存するだけでなく、「既存の自動車関連商品以外の売上高を総売上高中の40%にする」と明確にうたわれており、当社は本格的な事業の多角化の時代を迎えました。

産機事業の先駆けは、プラント配管支持装置用パイプハンガーでした。その後、パイプクランプ、メカニカルスナッバ、本州四国連絡橋に使用された皿ばねなどが開発・生産されました。昭和55年(1980年)に新設した愛知県の小牧工場では、後に滋賀県の野洲工場に移転する機械式立体駐車装置を生産しました。プラント部門に続く柱として注力したのは化成品事業でした。各種の開発が行われ、これを長野県の駒ヶ根に集約しました。また、昭和61年(1986年)には電子部品部を新設し、金属基板の生産に乗り出しました。さらに、平成2年(1990年)にはろう付事業を立ち上げ、今日の接合・セラミック事業へと成長していきました。セキュリティ事業は、情報関連機器事業から発展し、偽造防止技術など世界でも高い評価を受けています。

産機事業の先駆けとなったパイプハンガー(当時は厚木工場)

産機の大型機器生産のために新設された小牧工場

駒ヶ根工場に集約した化成品事業

基材から金属基板を一貫生産する電子部品事業

半導体プロセス用部品を生産する接合・セラミック事業

9. 横浜の新事業所に大移転
磯子、川崎の生産拠点を金沢区に集約

昭和40年代に計画策定が開始された東京湾岸道路は、当社の本社・横浜事業所(当時は磯子区)の土地を通ることから、横浜市から代替地をもらうこととして協力することになりました。オイルショックなどの影響で、当初計画よりも遅れましたが、昭和54年(1979年)、横浜市金沢区の埋立地の確保が決定されました。これを受けて、翌年、横浜新工場建設準備室を設け、移転計画が本格的に始動しました。

昭和62年(1987年)、自動車懸架用コイルばねの工場建設開始を皮切りに、翌年にはシート棟の建設も始まりました。また、これらと並行してNN計画推進室が発足し、新用地全体の利用計画が進み、これに基づいて、本館棟、開発実験棟、厚生棟、厚生年金基金会館(現体育館)などが建設されました。

平成3年(1991年)、本社、横浜工場、川崎工場、根岸分室の各部門、日発グループ中央研究所が全て、横浜新事業所に移転し、今日に至っています。

1991年に移転した本社

1989年、建設中の横浜新事業所。まだ本館棟は建設されていない

完成直後の開発実験棟

10. 積極的なグループグローバル展開
次々に新たな地域に拠点を設立

2000年代は、リーマンショック、東日本大震災、タイの大規模な洪水など、様々な苦難もありましたが、当社はグループを上げて堅調に成長していきました。国内では、グループ会社の再編などを行い、幅広い分野で、それぞれ競争力の高い製品を送り出し、業容を拡大していきました。また海外では、中国などに懸架ばね、自動車用シート、精密ばねのそれぞれの拠点を設けました。

2010年代に入ると、フィリピン、インドネシア、メキシコなど、それまで進出していなかった国や地域にも新拠点を設け、グローバル対応を加速させました。また、2015年には、欧州メーカーへの拡販の足掛かりとして、東欧での初となる生産拠点をハンガリーに設立しました。当社のグローバル展開は、例えば労務費が安いから進出するということなどではなく、「地産地消」をベースとしており、それぞれの地域に根ざした地元企業として愛されることを目指しており、これからもこの思いは変わりません。

欧州初の生産拠点として設立されたNHKスプリングハンガリー

グループ会社のトープラとともに進出したニッパツメキシコ

インドネシアでのシート生産

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